LETTER
街角に吹く
油絵で刷毛が白を引いたような雲が
神保町の交差点の向こうに幾つか見える。
ドアに社名が書かれた白いワンボックスが行き交う
オフィス街道の赤信号を待っている間、
空に弧を描くように後ろを振り返ると
年輪がよく見える木の看板の古本屋があった。
入口前のカゴ台には百円のドストエフスキーや、
以前の所有者の几帳面さがわかるゴーゴリなどがいた。
ヴィンテージ楽器を調律するような気分で店内に足を踏み入れると、
古本独特の埃っぽい空気がなく、
どちらかというと空調の利いた百貨店の様な印象を受けた。
数ある背表紙の前を、観光名所より幾分慎重に歩いていると
墓標の様に佇む「金子光晴全集 第三巻」が目に入った。
固化したロウソクに再び火を灯すよう厚紙のケースを外すと
「僕は疲れている。人間のことをかたるのはもういい。」
とそこに書いてあった。2,3ページ翻してからケースに収めると
時を背負ったままで、また蝋の様に固くなっていくを感じた。
店主に代金を払ってドアを開けると、何度か目の青信号が僕を迎えてくれた。
輪郭をなくした雲は、しばらく冷たい冬の風に吹かれた後だった。
Kenji Ayabe